まばたきする度

夏休みの最後のほうは子どもの宿題バトル。
やってないなーと自分でも思ってるのと、存在すら忘れていて浮上して来たのと両方! 

涙目になって片づけていて、ふとすり寄って来て言うんです
「ね、終わったら天魔さんね」はあ?

でもまあそういう訳で、諸々終わった後PCでオンデマンド放送をみていると
もう眼はらんらん、ヨダレハナミズたらしそう。
今までで一番ウケてたのはルンバでサンバだったかな。ダジャレ男子なもんで。
・・・彼はカバチャンネルももう好きで好きで、何回リピートしたか!
特にインド人(あか)が好きであそこだけヘビーリピート…こっちは先に行きたいのに…

ノートでPC画面が小さいし、角度が変わると見づらいので
ほんとむかーしのちっさいテレビの頃のように、
その前に押しあいへしあいで坐ってみています。

「瞬き」最初、またたきと読んでました。
またたき、って遠くで星がチカッとするあれ。
地上に到達するまでに、時には何十年何百年とかかってるというあれ。
光速なのに永遠

それがマバタキだったのが、最初のまだ曲を聞かぬうちの軽い衝撃。
やられた、という感じの。
両方の唇を少し突き出すように合わせるbの音の原始性とか
睫毛ばさばさの“mabuta”が合わさる体感とか、
もろもろ、なま、生きてる感じ。

そうしてこの、じぶん自身が一秒間に何回もする、
まばたき、で切り取る景色がちょっと緊張を持って意識されて来て
ひとつひとつ自分の内側に映って来る、
痛いような愛しいような光景たち

結局星のまたたきではなかったのに、
刹那が、まばたきするたびに永遠へ織り合わさってる、
時間を超えた織物のような手触りもあり。
睫閉じまた開き、目をみはる体感からの、いわば認識論でしょうこれ。

正直、剛さんの歌はなかなか…ハードルが高いと思う時がある。
比喩の抽象性が高かったり、複数組み合わさっていると、
謎解きのようになってしまうのも仕方がないし、
剛さんの歌詞のディープなファンとしてはそれが愉しみだったりする。

でもこの歌は、そうではなく。

剛さんの繊細は相変わらず輝くけれど、
その比喩も、きらきらしているけれど、
それは人生という誰もが歩いている大河の岸辺だから。

謎を解く必要はない。
なぜなら、謎は解かなくても、聴き手が誰しも体感していることだから。

そして、誰しもが言葉にできないけれど感じていること、を
美しく、そしてシンプルに何かになぞらえて歌う、
というのがその時代の詩人の役目なのだと思うと、

まさに、それがこの曲が幅広く愛される理由。
表現の苦闘を経て、縁結や赤いSingerの頃から多分そうだったけど、
この曲ではっきりと大河の歌い手になったことを、素直に寿ぎたいな…。

ファンはこれからも色々な変化球を投げて欲しいけど、
広く人の胸に届く、この曲、いいなと思います。


音源で好きなのはMステで流れたバージョンかな

毎朝5時ぐらいに起きるのですが、薄暗い部屋に
半音下がり少し翳りとたゆたいのある声が響きます。
重なり合った偶然と必然・・・そんな日を今日も私たちは生きるのね、という思いが
小さくあたたかく、胸に溢れて来ます。